ゾンビ映画の革命児、ジョージ・A・ロメロ: 深遠なる社会批評から見る一般のゾンビ作品との違い

ジョージ・A・ロメロゾンビ映画のジャンルにおいて、その社会的な批評とメタファーを通じて、深い影響を与えた監督です。

彼の作品、特に「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」や「ゾンビ」は、単にゾンビの恐怖だけでなく、人間社会の矛盾や暗部を浮き彫りにすることで知られています。

一方、「ワールド・ウォーZ」のような近年のゾンビ映画は、よりアクション指向で、エンターテイメント性を重視しており、終末後の絶望感や社会批判の要素が薄れがちです。

ジョージ・A・ロメロの作品が持つ特徴

1. 社会批評

ロメロの映画は、人種差別、消費社会批判、冷戦時代のパラノイアなど、当時の社会問題を反映しています。ゾンビは社会の問題を象徴しており、単なる恐怖の対象ではなく、より深いメッセージを持っています。

2. リアリズムとメタファー

彼の映画は、ゾンビがもたらす脅威を通じて、人間性や社会の本質を探求します。このため、観客は単に恐怖を楽しむだけでなく、自身の世界観や倫理観についても考えさせられます。

3. 独自のスタイル

ロメロは限られた予算の中で独特の映画を創造しました。これは、彼の作品が持つ独特の雰囲気やスタイルに影響を与え、後のホラージャンルに大きな影響を与えました。

一般のゾンビ映画が抱える課題

1. エンターテイメントの傾向

近年のゾンビ映画は、観客を引き込むためのアクションやスリルを重視し、深い社会批判やメッセージ性を犠牲にしがちです。これは、商業的な成功を追求する過程で生じる傾向です。

2. オリジナリティの欠如

ロメロが開拓したゾンビ映画の領域は非常に影響力がありましたが、その成功の影響で、多くの映画が形式的な模倣に留まり、新たな視点や深みを加えることが難しくなっています。

3. 観客の期待

現代の観客は、高速で刺激的な展開を求める傾向があり、これがゾンビ映画における深い社会批判や絶望感の表現を薄める一因になっています。

 

ロメロの映画が特別視される理由は、彼がゾンビという要素を単なる恐怖の対象ではなく、社会のメタファーとして用いたことにあります。

その深い社会的意味合いと批評は、単に恐怖を提供する以上の価値を生み出し、多くの

映画がこのバランスを取るのが難しい主な理由です。

自己卑下のループを断ち切る:ダブルバインドからの脱却

親が自信のない人間で子供の自己卑下を喜ぶ場合に起こり得る、子供のダブルバインドについて、chatGPTに聞いてみた。

 

Q.

親が自信がない人間であったので、自虐をすると喜んだ。

そのため、私は自分を卑下すると他者が喜ぶと思うようになった。

しかしこれは本当の自分を裏切っていることになる。

こういった、どっちに行っても苦しい状態をダブルバインドと呼ぶのか?

 

A.

はい、おっしゃる通りです。

ダブルバインドは、人が2つの矛盾するメッセージや要求に直面しており、どちらの要求にも応えることができず、どちらを選んでも罪悪感や苦痛を感じるような状態を指します。

この概念は、心理学、特に家族療法やコミュニケーション理論でよく使われます。

 

ダブルバインドの典型的な例は、ある人物が他者から相反するメッセージを受け取り、どちらのメッセージにも適切に反応することが不可能である状況です。

この場合、親が自虐的な言動を喜ぶという学習経験を通じて、「自分を卑下することが人を喜ばせる」という信念を持つようになったと述べられていますが、それは自分自身を裏切る行為であり、自己の価値を低く見積もることにつながります。

このような状況はダブルバインドの一例と言えます。

 

この問題に対処するには、以下のステップを検討することが役立ちます:

1. 認識する:まず、自分がダブルバインドの状況にあることを認識することが重要です。これには、自分の行動や感情のパターンを客観的に観察することが含まれます。

2. 表現する:次に、自分の感情や考えを安全な環境で表現することが大切です。これには、信頼できる友人や家族、または専門のカウンセラーや心理療法士と話すことが含まれます。

3. 代替的な対応策を探る:自分の感じているダブルバインドの状況を解決するための代替的な対応策を探ります。これは、自分自身の行動や反応のパターンを変えることを意味するかもしれません。

4. 自己受容を深める:自分自身を受け入れ、自己評価を高めることも重要です。これには、自己肯定感を高める練習や瞑想、趣味など自分を癒す活動が含まれます。

 

ダブルバインドの状況は複雑で解決が容易ではないかもしれませんが、適切なサポートと自己反省を通じて、より健全なコミュニケーションパターンと自己理解を築くことが可能です。

Q.

自己受容を深める、についてもっと深掘りして、具体的な対策なども教えて。

 

A. 

自己受容を深めるプロセスは、自分自身を理解し、受け入れることから始まります。

これは、自分の長所と短所を認め、現在の自分を受け入れることを意味します。

以下に、自己受容を深めるための具体的な対策を示します:

1. 自己対話をポジティブに:自分自身に向ける言葉に注意し、否定的な自己対話をポジティブなものに変える努力をしましょう。自分を批判する代わりに、自分の成長や成功を認める言葉を使うことが大切です。

2. 自己肯定感を高める練習:毎日、自分の良い点や成し遂げたことをリストアップする習慣を持つことで、自己肯定感を高めることができます。小さな成功も大切にし、自分自身を褒めることを忘れないでください。

3. 瞑想とマインドフルネス:瞑想やマインドフルネスの実践は、自分自身とのつながりを深め、自己受容を促進するのに役立ちます。呼吸に集中することで、現在の瞬間に意識を向け、自己批判の思考から距離を置くことができます。

4. 趣味や興味を追求:自分の好きな活動や趣味に時間を費やすことで、自己価値を高めることができます。自分の情熱を追求することは、自己尊重と自己愛を育む素晴らしい方法です。

5. 感謝の習慣:自分自身や周りの人々、そして自分の人生に対して感謝の気持ちを持つことは、自己受容を深める上で非常に有効です。日記に感謝することを書き留めたり、感謝を表現する習慣を持つことで、ポジティブな心理状態を促進できます。

6. プロフェッショナルなサポート:時には、心理療法士やカウンセラーといった専門家の支援を受けることも自己受容のプロセスを加速させることがあります。自分自身の考えや感情を理解し、新たな視点を得ることができます。

自己受容を深めることは、一夜にして達成できるものではありません。

継続的な努力と自己への優しさを通じて、徐々に自分自身を受け入れることができるようになります。

宗教がエゴを否定することの是非について

宗教がエゴを否定する傾向にあり、その結果、個々が依存的になりやすい傾向について検証してみた。

 

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宗教団体において、エゴの抑圧や自己犠牲、他者への一方的な奉仕が強調される傾向にあり、結果的に依存的な関係や集団内での不健全な動態を生み出す可能性があるという考え方は、一定の妥当性を持ちます。

教義に基づく自己犠牲

多くの宗教団体では、自己犠牲や他者への奉仕が教義の中心的な部分を占めています。

これは、信者の倫理的行動を促すものとして価値がある一方で、極端な場合、個人のニーズや欲求を完全に無視することにつながり得ます。

集団内での役割と階層

宗教団体はしばしば明確な階層構造を持ち、個々の信者に特定の役割を割り当てます。

この構造が硬直化した上下関係を生み、集団の目的に対して自己を犠牲にすることを強制し、個々の要望の表現を制限する可能性があります。

 

結論:バランスの重要性

宗教団体において上述のような現象が生じる可能性はありますが、これは必ずしも全ての宗教団体や信仰実践に当てはまるわけではありません。

多くの宗教や宗教団体は、自己成長、社会への貢献、精神的な充足を促進する教えを持ち、多くの人々にとって肯定的な役割を果たしています。

問題が生じるのは、エゴの健全な表現が抑圧され、個人のニーズが無視されるときです。

宗教団体内で健全な人間関係を育むためには、自己犠牲と自己実現の間のバランスを見つけ、個人の自尊心と自己同一性を尊重する文化を促進することが重要です。

このバランスが保たれることで、宗教団体はその潜在的にポジティブな影響を最大限に発揮することができます。

百田尚樹の”モンスター”を読んだ

読みやすくて一気に読んだ。

一言で言うなら、一人の女性の恨みと復讐のストーリーと言える。

ブスの視点から見た世界というのを見せてもらえた。

人間の残酷さを見たし、私もその残酷な一人なのだと思わされた。

学生時代の美人、不美人のヒエラルキーの話や、女性の容姿に対する男の残酷性については、身につまされる思いがした。

これは永遠普遍のテーマなのだろう。

 

美容整形の世界が何となくわかったのもよかった。

美人不美人は1ミリ、2ミリのものすごい微妙なバランスでなりたっているのだとわかり、面白かった。

彼ら彼女らは、いろんな意味でかなりの負担をしているのだと思った。

ほとんどのテレビタレントたちは整形しているようだ。

それにしても、整形外科の先生は風俗で貯めたお金で整形手術をするクライアントからお金を受け取ることをどう考えているのかは気になった。

自分ならそんな仕事はとてもできない。

 

ブスに対して、世の中は本当に残酷だというのはその通りだと思った。

資本主義はランクづけを教義として持っているが、それが美醜の感覚にも影響を与えているのだと思う。

美人であったとしても、老いたり、病にかかったりと、いつかはそれを失う。

そう考えると、誰しもがこの社会の犠牲者となりうる。

我々は非常に危うい社会を作り上げてきたのだと思った。

 

 

全体的に、深い人間描写はない。

出てくる男性が、美人とセックスするためには何でもするろくでもない人間しかおらず、これはこれで一面の真実なのだろうが、何か浅薄で、物足りない感じがした。

唯一深い人間性を垣間見せてくれた、ありのままの主人公の和子を愛してくれる風俗店の店員の崎村とは結ばれず、英介の方に行ってしまったのは、幸せ恐怖症という観点から深掘りしたら面白いテーマだが、大衆小説にはそれは求められていないということなのだろうか?

風俗の人間との交流がこの小説の中で、最も人間味のある感じがした。

現実世界もそんなものなのかもしれない。

私がこれを文学にするなら、崎村と結ばれて、本当の愛に目覚めるというストーリー展開にするが、多分売れないのだろう。